昨日と同じ挿絵であるが、今日は黒く塗りつぶした池に注目して欲しい。明暦二年(1656)、新井用水は完成した。それに伴って、池は不必要になったかというと、そうではない。
この地域は、もともと水の得にくい土地がらである。そのため、これらの池に水を確保するために「新井用水」が掘られたといってもよい。用水は完成した後も、十分な水が得られない年も多かった。
新井用水は、加古川・尾上の田畑を潤す「五か井用水」と異なり、勾配がほとんどない。そのため、新井は満水にして水位を上げなければ、流れてくれない。
*新井用水(13km)の分水点の標高は約12mであり、終着「大池」の標高は約5mである。しかも、「新井用水」は、「五か井用水」の取入れ口と同じである。
従って、旱魃のときは、「五か井」を優先させ、「新井」の分水口をせき止めるという条件まであった。池を潰して、新田を作るという余裕はなかった。黒く塗った池が、新井用水から取水している池である。
新井用水と池がともに稼動して、初めて、この地域の水は何とか確保されるという状況であった。
「新井用水」の北側(地図の上)の池は、「新井用水」より土地が高いため、取水することが出来なかった。これらの池は、依然として、雨水が最大の水源であった。
新井用水にそった池の多くは、古い時代に造られたようであるが、記録がない。

