加古川の戦争(36):協和会⑤・創氏改名

昨日も取り上げた兵庫県協和会の機関誌『兵庫県社会事業』(昭和15年4月号)に次の記事が続く。

標札掲出に関する件 ニ月二十五日

(加古川)支会において標札を正会員(戸主のこと)ならびに同居者等170枚作成し、2月25日、指導員を経て配布

即日掲出せしめたり

朝鮮で、氏制制度を創設する(日本式の姓名にするという)創氏改名(そうしかいめい)が実施しされるのは1940年(昭和15)2月11日である。2月11日は、紀元節であり、この日を期して内鮮一体を具現する政策として実施された。

(挿絵は、朝鮮で創氏改名があった後、姓名を日本式に改めない朝鮮人生徒が学校から強制的に追われたようす)創氏改名は、朝鮮民事令の「改正」であったが、当然在日朝鮮人にも適応された。国内で、創氏改名は市町村の行政機関で取り上げずに協和会が実施機関となった。

はじめは、日本式でなくとも金・李・朴等を姓として届ければよいという法令であったが、実施過程で日本式の名前が強制されていった。先の、加古川支会の標札の件であるが、日本式改姓を目指したものであったが、この時どの程度日本式の姓にしたのか分からない。

実施には混乱が生じたが、後の経済統制の中で米の配給簿、衣料切符の入手等に日本式氏名がないと日本国内での生活が保障されないということになり、在日朝鮮人のほとんどが日本式の姓に変えていかざるをえなかった。

しかし、一割以上の人は、最後まで日本名を拒否した。

*『皇軍兵士にされた朝鮮人(樋口雄一著)』(社会評論社)参照  

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