加古川の戦争(7)・空襲

神戸・明石は大規模な空襲を受けた。

そして、7月3日(昭和20)、姫路が空襲を受け、加古川町も空襲が近いとの流説が飛び交い、疎開が続出した。ついに、7月23日にグラマン戦闘機が加古川駅を機銃掃射した。

続いて、翌24日アメリカ機三機が、古門口(加古川町)に爆弾を投下し、加古川駅に停車中の急行列車を銃撃し、死者1名、負傷者3名の犠牲者がでた。しかし、実際の被害はさらに大きかったようである。

写真は水足の中心部にある歌碑である。上部が欠けている。この欠けた部分は、昭和20年7月30日、連合軍の戦闘機が加古川地域を機銃掃射した時、弾丸が当たり欠けたものである。この日の加古川小学校の沿革誌には、「加古川町に第二回目の米機の来襲あり被害軽微」と記しているが、日毛加古川工場および寺家町三丁目に50キロ爆弾十数個が落下し、死者2名・負傷者数名がでたという。

ともかく、加古川は神戸・明石・姫路等に比べ、幸いにも大規模な空襲を免れることができた。

*写真(加古川市野口町水足)の米谷十三郎の歌碑ついては後日、訪ねることにします。なお、加古川の空襲の詳細については『加古川市史(第三巻)』を参照ください。

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