昭和15年、大政翼賛会は発会した。
県の大政翼賛会常務委員になった上荘村の大西甚一平は、はじめは青壮年の「下からの熱意があってこそ、戦争遂行の目的を達成されると」と主張した。この下から戦争を支えるという発想は、財界、解散した旧政党、官僚の勢力からの反発がつよかった。一部右翼は、こうした「下」からの大政翼賛会運動への動きを「共産主義的」とさえみなした。
そして、大西らの主張は、徐々に変化する。
「・・・皇国の情勢は非常時から、臨戦態勢となり、さらに決戦体制へと刻一刻緊迫してまいりました。かかる、時局下において一大艱難を突破し、国策の完遂に、だんこ進まなくてはなりません。村のために、国のために一大決意をもって奉公の誠をささげたいと思います・・・(一部読みやすく改める)」(「農民倶楽部・昭和16年9月)
大西は郷土主義・食料の増産・私益追求の妄念を説くようになる。そして、日本は太平洋戦争に突入する。
*写真は、大西甚一平を中心とする上荘村農村文化協会の収穫風景(『加古川市史・第三巻』より)

