五ヶ井用水を歩く(4)・条里制と五ヶ井の水路

条里制と五ヶ井の水路

奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきた。地方には国司・里長等の地方官が置かれた。これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにあった。政府は、税を確実にするために土地制度を整えた。これが条里制である。

条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われる。 その仕組みは、六町四方(43.2ヘクタール)の大区画を縦横六等分、つまり36の小区画に分けた。

そして、その一つをさらに36等分し、その一つひとつに一の坪・二の坪・三の坪・・・のような番号をつけた。条里制の遺構(上図)をみて欲しい。

市域では五の坪(加古川町西河原)、九の坪(加古川町溝ノ口)、一の坪(尾上町長田)、十二の坪(尾上町口里)、三の坪(尾上町今福)等がその例である。

この他にも多くの坪名と思われる小字が残っている。池がない

条里制の土地があったことは確かめられている。しかし、土地だけでは田畑にならない。水が必要である。どのようにして水を得たのだろうか。池から得たとも考えられが、池の遺構がない。

埋もれてしまったとも考えられるが、これだけ発達した条里制である。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものである。考えられることは、加古川の水を利用することである。それにしても、加古川からの水が条里制の全ての田畑を潤したとも思えない。加古川は暴れ川だった。加古川に堰をつくり水を引いたとも考えられない。この時代に大規模な用水作る土木技術はまだない。加古川は、太古よりその流路を変えた。加古川の旧流路(下図)を見て欲しい。

これら流路と条里制の遺構がたぶんに重なるのである。つまり、条里制の土地は加古川の旧流路を用水として利用したと考えるのが自然である。

五ヶ井用水の始まりは条里制の時代まで、さかのぼることができると想像される。

目次に戻る 前ページへ 次ページへ