加古川を歩く(18):加古川は暴れ川(5 )・国包

上の標識をご覧願いたい。「国包」は、難解な地名の一つである。それに、こんな「丁寧な標識」をご覧になったことがあるだろうか。わざわざ「ここは上荘町の・・・」と説明がある。「国包は八幡町でしょうか?」と、加古川検定にも出題されそうです。というのは、国包は川東にあるが八幡町ではない。不思議なことに上荘町に属している。

「元禄播磨国絵図解読図(部分)」(下図)をご覧願いたい。その昔、加古川は印南郡と加古郡の間を流れていたと考えられる。(郡境は聖武天皇の神亀三年(726)に創設された)記録によると国包は、もとは川西の村であった。村が移動したのではない。

嘉禄元年(1225)、この地を大洪水が襲った。そのため国包村は流され、あとは一面の河原となった。この嘉禄の大洪水で加古川の流れも大きくかわったのである。

現在でも、川の西岸の井の尻には国包の字、花の谷・稲中・城ノ下・岡入・河原などがある。

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