加古川を歩く(14):加古川は暴れ川(1)

シリーズ「加古川を歩く」は、高砂の町で話題が動かなくなっている。また、高砂の町を取り上げるが、この辺で話題を少し変えてみたい。

加古川は暴れ川(1)

上図は「慶長播磨国図絵(解読図)」一部である。*慶長(1600~1615)1600年、姫路藩を支配した池田氏は、地図の場所に高砂城・高砂町の建設をはじめた。

この時、現在の加古川本流は加古川の支流であり、本流は現在の高砂市の西部を流れていた。

下の絵図は、「正保播磨図絵(解読図)」の一部である。

*正保(1644~1648)

正保(しょうほう)播磨図絵では、平荘町池尻あたりから、ほぼ同じ大きさの二本の流れがある。東の流れは東加古川、西の流れは西加古川と呼ばれていた。このように、加古川は、現在の流れと同じではなく古代から幾度となく、洪水を引きおこし、その流れを変えた。

加古川の周辺に住む人々にとって、加古川は恵の川であるとともに、同時に闘いの対象でもあった。

明日は、元禄播磨図絵にある加古川の流れを見ながら、加古川の暴れ川のようすをもう少しみたい。

目次に戻る 前ページへ 次ページへ