加古川を歩く(13):十輪寺

法然は比叡山で学んだ。しかし、そこでの仏教は、貴族・僧などのための宗教であり、救いのためには厳しい修業が必要であった。法然は、庶民の魂の救いのために、「念仏を唱えれば誰でも浄土に行ける・・・」と言う、浄土宗をはじめた。当然のように、既成宗教から非難が巻きおこった。が、浄土宗は猛烈な勢いで庶民の間に広がった。やがて、浄土宗に緩がみられ、事件がおきた。

この事件については『仏教の思想・Ⅱ(梅原猛著)』(集英社)を引用したい。

 「・・・法然の弟子に、往蓮、安楽という僧がいた。二人とも大変な色男で、しかも非常に声がよくて、・・・(省略)・・・多くの女性ファンを得たのです。宮廷の女官の中にもファンが出来る。ところが、後鳥羽上皇が熊野に参詣に行っている留守に、上皇が寵愛していた女官が往蓮、安楽のところに逃げてゆくという事件が起こる。これが後鳥羽上皇の逆鱗に触れて、そしてとうとう専修念仏の停止ということになるのです。

既成仏教にとっては思う壺ですね。

往蓮、安楽は死刑、法然は四国の土佐へ流罪になった・・・」(『仏教の思想・Ⅱ』より)法然は四国への流罪の途中、高砂の浜に立ち寄り、漁民に法を説いた。安元元年(1175)、法然75歳の時であった。半年の後、法然は赦免された。

高砂の漁師の指導者であろう、八田治部大夫は、法然を厚く信じ、四国へ迎えに行き、高砂の自宅にともなったという。

以後、この地方に浄土宗が広がり十輪寺ができた。

*写真:十輪寺山門

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