加古川を歩く(12):玉垣(高砂神社)の語ること

 高砂の町が育てた人物を紹介しているが、きようは、少し話題をかえてみたい。

写真の高砂神社の玉垣をみて欲しい。数多くの玉垣に、干鰯(ほしか)仲(写真)と刻まれている。その下に、欠落しているが仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのであろう。ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残している。

干鰯は、字のごとく鰯を干して、小さく砕いた肥料である。干鰯は、肥料として優れており、油粕と共に広く使われていた。とりわけ、加古川・高砂地方にとって、干鰯は重要な意味を持っていた。

なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地であり、木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要とした。そのため、干鰯屋は、大いに繁盛した。明和五年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引換えに、高砂での干鰯販売の独占権を認められた。

当時、高砂には干鰯問屋が9軒、仲間19軒もあったという。

伊保崎村・荒井村から別府村・池田村一帯は木綿づくりが盛んで、文政期(1818~29)から幕末の頃の状況をみると、高砂の綿作付率は、畑で95.2%、全田畑面積に対しても40.1%であった。

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