加古川を歩く(11):布舟(ふしゅう)と一茶

俳人・松岡青蘿(まつおかせいら)については、昨年2月14日・15日のブログをご覧願いたい。青蘿は、蕪村などと共に「芭蕉中興の六人」に数えられている。青蘿の門人に、高砂の田中布舟(たなかふしゅう)がいた。きょうは、布舟と小林一茶との話題を取り上げてみたい。一茶は、長野の貧しい農家に生まれた。三才で実母をなくし、八才の時継母が迎えられた。そして、十才の時異母弟が生まれた。以後、一茶は次第に孤独をかこつようになった。

  我と来て 遊べや 親のない雀

この句は、この時期の一茶のやるべない気持ちを詠んだものといわれている。十四才の時、大好きであった祖母も天国へいった。江戸へ奉公に出た。二十五才の時、小林竹阿について俳諧を学んでいる。三十才で、彼は西国行脚の旅に出た。俳諧修行の旅であった。この旅の途中(寛政七年・1795)、一茶は高砂の布舟邸を訪れている。

一茶の俳諧の師であった、小林竹阿が晩年大坂におり、布舟との関係ができていたのかもしれない。おそらく、竹阿の勧めで布舟を訪れたと想像される。一茶は、三月八日、四国の丸亀から下津井に渡り、九日に岡山まで来た。十三日、高砂に入り、布舟邸に泊まった。さっそく翌十四日、布舟邸で句会が開かれた。

蝶と共に 我も七野を 巡るかな

句会での一茶の句である。一茶は、布舟邸に二泊して加古川へ向かった。旅から江戸に帰った一茶は、句集『たびしうゐ』を出版している。布舟の句「みるうちに 雪添う土手の 柳哉」がある。

  水鳥の かしら並べて 朝(あした)かな

これも布舟の句である。美しい高砂の風景を詠んでいる。高砂から、こんな風景が失われて久しい。

*写真は、布舟の墓(十輪寺墓地)

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