加古川を歩く(10):河合義一(かわいぎいち)

大正七年(1918)の米騒動は、日本の労働運動に大きな影響をあたえた。

さらに、第一次世界大戦後、ロシア革命の思想的な影響もあって、多数の労働組合が組織された。農村においては小作争議が年ごとに激増した。大正十一年(1922)四月、神戸で賀川豊彦等により全国的組織・日本農民組合が結成された。その後、日本農民組合は各地にひろがった。

県下では、最初に「農民組合東播連合会」が結成され、河合義一は会長に選らばれた。義一は、東京外語大学でフランス語を学び、卒業後は日本銀行に就職した。就職してまもなく発病(結核)し、神奈川県のサナトリウムで療養した。この不慮の発病が、彼のその後の進路を大きく変えた。

また、東京外語時代キリスト教徒であった彼は、本郷教会へよく通った。この本郷教会の持つ環境が、彼のその後の方向を決定的にしたともいえる。本郷教会に集まった人々の中には、大正デモクラシーの指導的役割を果した吉野作造、社会主義者で、小説『火の柱』で有名な木下尚江、そして日本最初の労働組合「友愛会」の創始者、鈴木文治などがいた。

高砂に帰った義一は、一時療養のため瀬戸内海豊島(てしま)へ移った。そこで、地主の圧制に苦しむ小作の生活を知った。高砂へ帰った義一は、農民運動をはじめた。これは、彼の足取りだけではなく、河合家に流れる義侠心がそうさせたように思えてならない。

義一の祖父、義平の長男は、昨日のブログで紹介した新撰組の河合耆三郎である。幕末池田屋騒動でも活躍した。

赤はちまき事件(大正13年12月)

加古川小学校敷地拡大のため耕作者の了解もなく地主が町に売ってしまった。これに対して、小作者は耕作権を守るために立ち上がった。木村(加古川町木村)の農民は、牛の角に赤はちまきをつけ、畝作りをして麦を蒔き、耕作する権利を地主に求めた。この一件により、地主の所有権より耕作権が優先することが認められた。この「赤はちまき事件」で、義一ら四人は半年間留置された。

昭和六年(1931)県会議員に当選し、戦後は衆議院議員として活躍した。義一の生涯は、まさに農民の友としての一生であった。

*写真の胸像は、同士が彼を尊敬してつくったが本人の希望により公開されなかった。

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