文久三年(1863)の夏のある日、一人の若者が高砂の町から姿を消した。彼の家は、この地方では誰知らぬ者のない蔵元(くらもと)であり、秋の収穫期になると威勢の良い現場監督として活躍していた。その彼が、突然豊かな暮らしをなげうって姿を消した。
やがて、京の新撰組に入りサムライになったことを土地の人は風の便りに聞いた・・・彼の名は、河合耆三郎で、武士として活躍したいと常々考えていた。新撰組のできたことを知った。いてもたってもいられなく、ついに高砂を飛び出したのである。彼は、蔵元の息子で、銭の勘定に明るいことを買われ、新撰組では勘定方(会計係)についた。
新撰組の規則は、他に例をみない厳しいものであった。慶応二年(1866)二月二日の朝のことであった。前夜、タンスの中に入れていた五十両の大金が消えていた。タンスに近づけたのは、新撰組の幹部だけであった。これが表面に出れば深刻な内輪もめになる。
彼は、そっとして、この五十両の穴埋めのために国もとの高砂へ早飛脚をだした。折り悪く、父親は商用で外に出ていた。この間に、新撰組で五十両が必要になった。

