加古川を歩く(8):天竺徳兵衛(てんじくとくべえ)

徳兵衛の最初の航海は、寛永三年(1626)の秋であった。397名を乗せた船は長崎を出帆。目指すは、はるか南天竺のシャム(現在のタイ)。この時の航海は140日で、1年ほど滞在して長崎に帰ってきた。

寛永七年(1630)再びシャムに渡った。この時、山田長政に会ったという。徳兵衛は、小さい頃からよく本を読み、読み書きに優れていた。15歳の時、朱印船の「書き役」として雇われた。鎖国になる10年ほど前のことである。当時、朱印船は全国に9艘しかなく、したがって外国のようすを知る者は、ほとんどいなかった。

朱印船の行き先は、台湾・マカオ・ルソン(フィリピン)・ベトナム・カンボジア・シャム(タイ)・マレー等で、当時これらの国々は天竺と呼ばれた。徳兵衛は、航海で見聞きしたことを『天竺物語』・『天竺渡海物語』に書き残し、人々を驚かせた。

これらの物語で、南十字星がきれいで感動したこと、山田長政にあったこと、米を1年に3度も作ること、ヤシの水が旨かったこと等、当時の日本人にとって信じられないことをたくさん書いる。

その後、徳兵衛は渡航の経験を生かし、大坂で外国商品を商う店を開いた。晩年、頭を剃って「宗心」と号し、83才で没したという。徳兵衛は、1610年代に高砂に生まれ、1700前後に没したというが、詳しいことは分からない。

徳兵衛の墓は、高砂市高砂町横町の善立寺の境内(写真)にあり、墓石には元禄八年(1695)八月七日と刻まれている。

徳兵衛が、天竺から持ち帰ったというベーダラ(芭蕉の葉に書いた経文)が十輪寺に保存されている。徳兵衛が、世に知られるようになったのは、彼の死後のことで、講談師が彼の見聞記を面白おかしく語り、歌舞伎にも取り上げられたためである。

ことに、鶴屋南北(つるやなんぼく)の書いた『天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)』は大当たりをした。

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