加古川を歩く(7):美濃部達吉

美濃部達吉は、現在の高砂市高砂町の医者の次男として生まれた。彼は、高砂小学校6年の過程を4年ですませた。よほどの神童であったのだろう。遊ぶことの少ない、もの静かな少年だったという。やがて、小野中学(現在の県立小野高校)から東京大学へ進んだ。東京大学法学部を卒業後、一度内務省の官吏になったが、すぐに大学に復帰した。1899年(明治32)ヨーロッパへ留学し、ほとんどドイツで学んだ。特に、ハイデルベルグ大学で学んだイエルネックの憲法学説が後の達吉に大きな影響あたえた。

「天皇機関説」事件

彼の憲法学説は「天皇機関説(てんのうきかんせつ)」と呼ばれいる。この説は、「主権は天皇にあるのではなく、国家にあり、天皇は国家の一機関である・・・」とする学説で、絶対的な天皇制国家の下で、政党と議会の役割を高めようとする学説であった。この時期、日本は戦争に向かって暴走をはじめていた。軍部は、特に学問の自由は危険思想の温床であるとして容赦のない一撃を加えるようになった。

1935年(昭和10)、達吉の「天皇機関説」にも攻撃がかけられた。当時、貴族院議員にもなっていた達吉の学説を、ある右翼議員が、彼の説は「謀反」「反逆」として攻撃したことに端を発して「天皇機関説」排撃運動がはじまった。

そして、全国の大学・高等学校から機関説は排除され、達吉も議員を辞職した

この事件(天皇機関説事件)以後、政治・経済のあり方についての研究の自習はできなくなった。

政府・軍部は、国民のいっさいの非難を許さず、戦線を中国全土に広げた。1945年(昭和20)、8月15日、敗戦。戦後、新しい憲法がつくられ、達吉は新憲法に関する著書を出版した。

達吉の新しい活動が始まろうとしていた1948年(昭和23)、達吉は75歳の生涯を終えた。

*達吉の生家は高砂町の堀川の近くで工楽松右衛門家の一軒隔てた北隣にあった。

現在は、倉庫になっており達吉の生家であることを知る人も少なくなってきた。説明板ぐらい欲しいものである。達吉の生家の場所に倉庫の建設の話が持ち上がった時、保存運動はなかったという。

*写真上:高砂公民館玄関にある「美濃部親子文庫の碑」

写真下:美濃部達吉の生家跡(現在は倉庫になっている)

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