工楽松右衛門②:エトロフヘ
天明期から寛成期にかけて蝦夷地は、にわかに騒がしくなってきた。ロシア船の出没があった。一時は、ロシアによる蝦夷地の占領の噂も流れた。
そんな雰囲気の中で、幕府から兵庫の問屋衆に難題がくだった。「・・・エトロフ島を調査し、港をつくれ・・・」兵庫の問屋衆は何度も、なんども話しあった。堂々巡りが続いた。
そんな時である。めっきり白いものが多くなった松右衛門が「・・・・皆さんのご異議がなければ、その御役目をお引き受けしたいと存じます・・・」と、発言した。
もとより反対する者はなかった。松右衛門に感謝とねぎらいの言葉があった。この時、松右衛門は50才に近かった。エトロフについての知識は持ち合わせていなかった。
幕府からの工事費の一部は下された。
松右衛門は、船頭や大工を選び、資材を・食料の準備にあたり5月(1790)、20名の乗組員と共にエトロフへ向かった。エトロフに着いた。短い夏は駆け足で過ぎ去った。冬将軍がどんどん迫っていた。
彼は、ひとまず兵庫へ引き返し、翌年の3月再びエトロフを目指した。その年の9月、あらかた港を完成させた。その後も、幾度となくエトロフに渡った。港は後年、紗那(シャナ)と名づけられた。
彼は、60才を過ぎて兵庫の店を息子に譲り、郷里・高砂に帰った。郷里・高砂の町は賑わっていた。さらに発展できると考え、私財を投じ高砂港を改修し、現在の堀川を完成させた。
この功績により享和二年(1802)、彼は「工楽(くらく)」の苗字をゆるされた。「工楽」とはまさに工事を楽しむというという意味である。文化九年(1812)、秋風が肌にしみる日だった。松右衛門は、波乱にとんだ生涯を終えた。
*地図で紗名(シャナ)の場所を確認ください。

