加古川を歩く(5):工楽松右衛門①

近世の高砂の町は賑わいがあった。豊かな経済力は、個性豊かな人物を多数輩出した。今日は、工楽松右衛門(くらくまつえもん)を紹介したい。

松右衛門については、小説『菜の花の沖(司馬遼太郎)』(文春文庫)二巻で「松右衛門」として紹介されている。

松右衛門①

松右衛門が世に知られるようになったのは、船にとって重要な帆布の改良に取り組んだことである。船の帆は、古代から材料は麻布や草皮等を荒く織った粗雑なものであった。瀬戸内を縦横に活躍した水軍も、遣唐使船も多くはムシロの帆を使ったと記録されている。そして、当時の船は帆よりも櫓(ろ)にたよることが多かったようである。

帆布が広く使用されるのは、江戸時代初期からである。しかし、この帆は、薄い布を重ねあわせて使用したため、破れやすく雨水等を含んですぐ腐ってしまった。

そこで、松右衛門は高砂・加古川地方が綿の産地であることに目をつけ、現在のテント地のような分厚い丈夫な布を織り帆にした。その帆は、丈夫であるばかりか、操作も簡単で、風ものはらみもよくなった。さらに、継ぎ目に隙間を開けたことで、つなぎ合わせた一枚の帆よりはるかに便利になった。

この帆は「松右衛門帆」として呼ばれ、またたく間に全国に広がり、彼は一躍大商人にのしあがった。

蝦夷地へ

 「松右衛門帆」により、当時、最も遠いとされた「蝦夷地(北海道)」との航海の日数も短縮された。松右衛門は、蝦夷地の海産物をあつかう廻船問屋も始めた。内地に運ばれたのは、塩鮭・干鮭・にしん・かずのこ・ほうだら・にしんかす・昆布・ふのり等であった。

特に塩鮭・にしん・昆布の三品が圧倒的に多かった。これらの移入で、当時の食生活も随分変化があったといわれている。また、塩鮭は保存のため塩からく、鮭の本来の味が損なわれた。そのため冬の期間は、塩を薄くした「あらまき」を江戸や大坂に直送した。

「あらまき」は、松右衛門の発明品である。

*明日のブログも松右衛門について続ける。

松右衛門像(高砂神社境内)。松右衛門の右手は、はるか蝦夷地を指している。

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