一色・二俣(加古川市平岡町)を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水(新井用水)の話です。
承応3年(1645)の旱魃は、ひどかった。太陽が大地を容赦なく照りつけた。秋の収穫は何もなかった。
溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくなかった。
寺田池の水も完全に干上がってしまった。
それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実った。
野口・平岡・播磨の村々の百姓は、食べるものがなかった。五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつないだ。
古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、加古川から用水を引きたかった。しかし、水は、川より高い土地には流れてくれない。
*挿絵は伝兵衛が五か井郷の実りを見て、用水の建設を考えている・・・
そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川から水を取る事を計画した。
しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口の近くになる。当然、五か井郷は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるか?」ということであった。
藩主・榊原忠次の協力を得ることができ、難問は解決した。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始にまり、翌年の3月に完成した。
伝兵衛は新井の開通式に白装束で臨んだという。今年は、新井用水が開通して350年にあたる。

