25平岡町探訪:寺家町組と古宮組
江戸時代の村長は、庄屋である。しかし、多くの場合、庄屋は藩から直接、命令・伝達を受けていたのではない。それらは、藩の役人を通じ、いったん大庄屋(おおじょうや)に伝えられ、庄屋そして村人に伝えられた。

もちろん藩への「お願い」は、その逆で庄屋・大庄屋・藩の手順で行われた。

大庄屋は一言でいえば「庄屋の中の庄屋」で、普通20ケ村前後の村を支配する庄屋である。そして、大庄屋の支配する村々の範囲が「組」である。

*地図は加古川地区の大庄屋の支配する組

平岡(加古川市)は、地図のように、寺家町組と古宮組(一時、野添組といった)の二つの大庄屋が支配する地域だった。

組を決めた規準は、はっきりしないが、寺家町組は街道沿の地域が一つの組をつくり、古宮組は、農業・漁業がともに盛んな村々であった。

したがって、現在の平岡は、江戸時代の性格の異なる二つの地域が合併されてできた地域といえる。

寺家町組の大庄屋は、中谷与三衛門で、古宮組は今里傳兵衛が、代々大庄屋を勤めている。そして、組の名称は大庄屋の屋敷があった場所の名称が一般的である。

*それぞれの組の平岡の村々を挙げておきたい。平岡中学校区にあった村々は寺家町組であり、平岡南中学校区にあった村々は古宮組に属していた。

《寺家町組》 新在家・寺田・野辻新・高畑・西谷新・土山

《古宮組》  山上・二俣・一色・中野・八反田

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