《寺田用水》
江戸時代の初めのころ、寺田池水源一帯に開発の手がのび、多くの池が造られた。寺田池に十分な水が集まらなくなった。そのため、新しい水源が求められた。曇川の上流から水を引くという計画だった。しかし、曇川の水を寺田池まで引くとなると、途中の小高い丘(東播磨高校の横)を越えなくてはならない。
ここに高堀を掘るには、かなりの苦労がいる。万治元年(1656)、曇川の支流に井堰を設けて用水(寺田用水)づくりがはじまった。
寛文3年(1663)、水は高台を越えた。しかし、この寺田用水が曇川から取水できる期間は、曇川郷との取り決めで、毎年5月2日~6月23日までに限られていた。そのため、一適の水も無駄にできなかった。寺田池を中心に10ヵ所のため池は連結され、水は有効に運用された。
《寺田用水高畑分水》
この頃、平岡(加古川市平岡町)にも寺田村・野辻村・西谷新村が誕生した。それに伴い、以前にもまして、水が必要になった。池が造られた。
しかし、雨水に頼っているだけでは不十分で、寺田用水からの分水が計画され、寛文2年(1672)完成し、新田へ水を供給した。
これらの用水づくりには、百姓衆の苦難の物語があったはずであるが、記録は無く、何も語っていない。

