記録によれば、寺田池は平安時代(寛平年間・889~893)に造られたとされている。
そのため、当時この池は寛平池(かんぴょういけ)と呼ばれていたようである。
周辺の水田を潤す池として造られたのであろう。
寺田池の水源の地形(この辺りは印南野と呼ばれ、東が高く、西にわずかに低い地形になっている)から見て、寺田池の水は六分一(ろくぶいち)、守安(もりやす)、幸竹(こうたけ)辺りの、しみ出した水や、雨水を集めた。しかし、規模は現在の池よりずいぶん小さいものだった。寺田池を水源とするこの辺りの農業は、水に恵まれず、長期にわたり生産は停滞していた。
この状態が一変したのは、江戸時代の初期の頃である。歴史学者、大石慎三郎氏は『江戸時代』(中公新書)で次のように説明している。
・・・戦国初頭から四代綱吉の治世半ば頃までは、わが国の全歴史をとおしても、他の時代に類のないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代であった。
・・・戦国騒乱を生き抜いて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また、治水土木家でもあった。・・・
*現在、写真のような水を抜いた寺田池の珍しい風景が見られる。

