14平岡町探訪:一色村の水争い

水は、農民たちの命であった。そのため、しばしば紛争の原因ともなった。

神鋼病院・加古川東郵便局の南に池がある。三ツ池(写真)である。

享保9年(1727)、一色(加古川市平岡町一色)の文書「別府村との水争いにつき願書」は三ツ池の水をめぐり、一色村と別府村の水争いを記録している。

もともと、三ツ池は一色村の池であった。別府村の今池が50年ほど前に新田となったため、別府村は三ツ池から水の一部をもらっていた。

享保9年の旱魃では、三ツ池の水はほとんど底を突いてしまった。そのため、別府村は水をもらえなかった。

別府村の農民は、クマデなどをもって押しかけ樋を切り落としてしまった。そして、三ツ池に大勢が集まり気勢を上げた。

一色村では「こんなことでは、今後やっていけない」と、領主に訴えた。この訴えが、どんな結果に終わったかについては分からない。

三ツ池をめぐって同じような紛争が幕末(嘉永6年・1853)にもおきている。

江戸時代の水争いについて、一色町史『いっしき』は次のように分析している。

・・・中世のまとまりである惣村(そうそん)は、近世の村をいくつかを合わせた広域的なもの(であったが)、近世になると小さな集落に「村切り」され、これが生産の単位になり、また納税の単位になった。村同士が水をめぐって激しい緊張関係になったのは、こうした社会の仕組みが背景となっていたのである・・・・

*一色町史「いっしき」参照

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