土山(加古川市平岡町土山)について、『加古郡史』は、次のように書いている。
《土山村》
印南野の南偏に位す。往古より駅路にして、中世以後、此所に一里番所をもうけたり。
加古郡には、寺家町・新在家にも一里番所が置かれていたことが知られている。
一里番所とは、ほぼ一里ごとに、街道筋のさまざまな御用(公用・雑事)を行うために設けられた役所である。新在家~土山間では、その距離が一里(約4キロ)にならない。少し短すぎる。これは、土山が郡境にあり、特別な役割があったものと推測される。一里番所を通過し、運搬される品物の相改役人、筆取(記録係)、御状箱持人足などがおかれた。
一里番所の運営費ならびに人足は、村々の負担であった。
土山の一里番所について史料は、何も語らないが兼本雄三氏は、土山の字「下馬」が一里番所のあった場所と推測されている。
平岡東小学校の地は元、下馬池という池であった。おそらく、一里番所は、その周辺にあったのであろう。
*『土山とその周辺の歴史-太古から明治まで-』(兼本雄三著)参照

