4平岡町探訪:一里塚

  門松は 冥土の旅の 一里塚

  めでたくもあり めでたくもなし

これは一休さんの作だといわれている。     

もちろん、一休さんが生きた時代は(1392~1481)には、一里塚はつくられていない。したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品である。

一里塚は慶長9年、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がっていった。

一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられた。兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられたという。

図「元禄播磨の国絵図(部分)解読図」を見てほしい。高畑村と西谷新村との間に街道を挟んで●が二つある。これは一里塚のあった場所をあらわしている。

平岡(加古川市平岡町)にあった一里塚は、いつの頃まであったのか、また正確な場所は分かっていない。

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