26.平岡町二俣探訪:二俣集落の誕生はいつ?
摂津国住吉大社の経営上、豊かな播磨の国が大きな役割を果たしていました。

永享六年(1434)八月に作成された書類に、正平九年(1354)の記録として住吉大社造営のために二俣を含む阿閇庄内の村々は分担金を割り当てられたことを記録しています。

その内、二俣一色(二俣のこと)には、「預所(あずかりどころ)二貫八百文、下司六百文、公文四百文、庄役二貫八百文」の記録があります。

また、天正十年(1582)に八月の羽柴秀吉の書状にも「ふた又」で、330石の知行の記載があります。

◇二俣集落はいつごろ誕生したのだろう◇

地域の歴史を学習する時、「私の村(地域)はいつごろ、つくられたのだろう」ということが知りたくなります。

江戸時代に成立した「新田(江戸時代に新しく開かれた村)」以外は、確実な村の誕生を知ることはできません。

二俣も、確実なことは分かりません。

そこで、「いつ二俣村が誕生したか」に迫ってみることにしましょう。

正平九年(1354)のある記録に二俣の名が出てきます。

と言うことは、二俣集落は、正平九年には存在していたということになります。

正平九年は、南北朝時代の真っ最中で、まさに混乱の時代でした。

ともかく、二俣の歴史は南北朝時代の天正九年(1354)までは記録でさかのぼることができます。

もちろん、二俣は天正九年に村が誕生したのではありません。さらに、古い歴史をもった集落です。

二俣の確実なルーツを確かめたいのですが、いまのところ分かりません。

きょうは、正平九年までたどることができたことで辛抱しておきます。

*写真:播磨町の阿閇神社

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