15.印南野台地⑤・寺田用水物語(その1)

印南野台地の歴史は、水との闘いの歴史でした。

承応三年(1654)、この年の旱魃(かんばつ)は、猛烈なものでした。

太陽が無常にも、ひからびた大地を照りつけました。

秋の収穫は当然ことのように、ほとんどありません。

餓死する者は、後をたちませんでした。

二俣村には、この年の事情を伝える文書「播磨賀古新疎水道記」が円明寺に伝えられていました。

この記録に関しては、後日紹介します。

この年の旱魃は、印南野台地にある村々では同じでした。

新在家あたりのお百姓さんに語ってもらいましょう。

このお百姓さんの会話は、記録にもとづくものではありません。想像です。

(A:庄屋  B:村役)

A:わしらも五ヶ井郷(加古川町・尾上町を流れる用水の村々)のような溝(用水)ができないものかな。

B:水を引くと言ったって、どこから引くのですか。加古川ですか・・・喜瀬川からですか・・・

A:そうよな。加古川は少し遠いし、この土地は高すぎるし、無理だろうな。

それに喜瀬川の水は少ないし、わし等が使うとなると黙ってはいまい。

B:やはり無理ですか・・・

A:曇川(くもりがわ)から水は引けないものだろうか。

B:あの川は、だめでしょう。あの川は、雨が降ったときにだけ流れがあり、普段、水はありませんよ。曇って雨のあるときだけ流れるので「曇川」って呼ばれていますよ。

それに、低いところを流れていますから・・・

A:印南野台地の高いところを削り、水を引く。そして、曇川の水が流れる時に、寺田池に水を取り入れ、貯めておくんです。

寺田池に水さえあれば、日照の時でも今のような惨めな生活から抜けだせるのだが・・・

きっと、こんな会話があったのではないでようか。

事実は、どのような過程で曇川から寺田池までの溝(用水)つくる話は進んだのか、記録が残されていないのでわかりません。

曇川から寺田池までの溝(寺田用水)の工事が決定され、藩に自普請(藩の工事ではなく、村々で費用をまかなう)ながらも認められました。

やがて、寺田用水は完成しました。用水の途中から高畑村へ、そして二俣村の大池へ流れました。そして、二俣村の田畑を潤したのです。

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