16.印南野台地⑥・寺田用水物語(その2)

きょうの「二俣探訪」では、話の都合で『二俣』についての説明はありません。ご辛抱ください。

◇元は寛平池◇

記録によれば、寺田池は平安時代(寛平年間・889~893)に造られたとされています。

そのため、当時この池は、寛平池(かんぴょういけ)と呼ばれていました。

寺田池の周辺は、印南野台地で東が高く、西にわずかに低い地形になっています。

寺田池の水は六分一(ろくぶいち)、守安(もりやす)、幸竹(こうたけ)辺りの、しみ出した水や、雨水を集めています。

しかし、規模は現在の寺田池よりずいぶん小さいものだったようです。

寺田池を水源とするこの辺りの農業は、水に恵まれず、長期にわたり生産は停滞していました。

この状態が一変したのは、江戸時代の初期の頃です。歴史学者、大石慎三郎氏は『江戸時代』(中公新書)で次のように説明しています。

「・・・戦国初頭から四代綱吉の治世半ば頃までは、わが国の全歴史をとおしても、他の時代に類のないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代であった。

・・・戦国騒乱を生き抜いて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また、治水土木家でもあった。・・・」

  ◇寺田池に水が集まらない◇

戦国時代の土木技術が大いに進み、それが江戸時代に農業に転用され、江戸時時代のはじめは、一大土地開発の時代をむかえました。

寺田池あたりでも開発が進み、野辻村(寛文6・7年)・寺田新村(明暦年間)・西谷新村(延宝7年)が新村として独立しています。

地図の幸竹、森安、野際(いずれも稲美町)等、寺田池の水源になっている地域にも、この時代に新しく村が誕生しました。

*地図はクリックして拡大してご覧ください

それらの村々は、当然水を確保するため、多くの池をつくりました。さあ、大変です!・・・・寺田池に水が集まらなくなりました。(地図中の「←」は雨水の流れる方向)

そのため、寺田池は新しく水源を求めねばならなくなりました。そこで考えられたのが、神野小学校の南を流れる曇川の上流から水を引くという計画だったのです。

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