昨日のブログで、中世の高砂は、今津(加古川市尾上町池田付近)であることを確認した。
慶応6年(1601)、姫路藩主池田輝正は、高砂城を中心に高砂の町の建設にとりかかった。以後、高砂の町は猛烈な勢いで繁栄することになる。高砂城のあった場所は、現代の高砂神社ある。
輝正は、ここに加古川を付け替え(流れを変え)現代の加古川本流河口の右岸(西岸)に、新たに港湾を整備した。
ここを「今津町」と名づけた。
築城に伴い、高砂神社は農人町(のうにんまち)へ移転させられた。
その後、一国一城制(元和元年・1615)により高砂城は廃城となり、高砂神社は、元あった現在の場所にもどされ現在にいたっている。
もう少し、江戸時代の高砂の町について続けるが、その前に江戸時代以前の高砂にあった「高砂の古城」について若干ふれておきたい。
高砂の古城は、秀吉の三木攻めで、その名を知られているが、詳しいことは分からない。
この城は、現在の高砂市荒井町小松原辺りであろうといわれているが、場所は定かでない。
城は、『近世の高砂』(高砂教育委員会)では、城下町・港・漁村が有機的に結合しているように記述されているが、「塞」にすぎなかったのであろうと想像される。
*写真:高砂城跡を示す石碑(高砂神社境内)

