日本は、清国(明治27・28年)との戦争で勝利した。この勝利は、日本を軍国主義に導くきっかけとなった。日岡神社の門(随神門)をくぐると、すぐ西(左手)の小高い丘に、写真のような塔がある。

この塔は、「義勇奉公之碑」で、戦没者を慰霊するための塔である。明治29年6月25日に建立された。この時期、日本は日清戦争勝利の余韻の中にあった。
塔の建立以来、4月20日には加古郡全体の慰霊祭が、この場所で行われた。その後、日本は日露戦争・満州事変・日中戦争へと突き進んでいく。
『大野史誌』(大野町内会発行)は、昭和7年4月20日の加古郡全体の戦没慰霊祭の写真を載せている。なお、この慰霊祭に参加した町村は、加古川・高砂・別府・尾上・神野・八幡・加古新・野口・二見・天満・阿閉・平岡・母里そして氷丘の14ヵ町村であった。
その後、戦争の拡大にともない戦没者は激増した。そのため、加古郡の各町ごとに忠魂碑が建立され、慰霊祭は各町村で行われるようになった。
話を戻すが、日岡山で行われたか慰霊祭の後、参加者は持参の弁当をひろげ、しばし日岡山の春を楽しんだと言う。
今日のブログは、「加古川の戦争」としてとりあげた。
*『大野歴史誌』(大野史誌編集委員会)参照
