「協和会」という名を聞かれたことがあるだろうか。
あまりないのではないか・・・1945年(昭和20年の敗戦まで)、200万を越える朝鮮人が日本に住んでいた。この原因は、朝鮮における日本の植民地支配・収奪がきびしく、農村の暮らしが成り立たなくなり、日本や中国の東北地方に流浪する人が増えたためである。また、1939年からは、朝鮮からの労働者の強制連行が始まったためである。
日本政府は、彼らの取締りと、戦争遂行に必要な労働力、軍人・軍属への協力のため39年(昭和14年)中央協和会を結成し、そして地方にも協和会を結成させた。この協和会についての研究は進んでおらず、ましてや、地方段階の協和会の実態の詳細については知られていない。
従って、ここに報告する加古川地方の「協和会」の報告も充分ではないことを最初にお断りしておきたい。地方の協和会は、各警察署が担当した。
加古川・高砂地方では、加古川警察署が監督する加古川支会(加古郡)、高砂警察署が監督する高砂支会、魚橋警察署が担当する魚橋支会(印南郡)がおかれた。高砂警察署は、高砂町だけでなく荒井・伊保・尾上・別府・阿閇(現:播磨町)・二見町と海岸部を担当した。
戦前・戦中の在日朝鮮人に対する施策を知ることは、今日の日本人にとって必要な課題の一つであると思える。

『写真集・加古川(玉岡松一郎編)』より
