加古川の戦争(28)・「復員」した梵鐘

今日は加古川市の話題ではなく、高砂市曾根町の「復員」した梵鐘(写真)を紹介したい。

曾根天満宮の西の道を隔てた南西に、観音堂がある。十一面観音を祀っいる。もとは、天満宮の北東部にあったが、神仏分離により、今の場所に移された。

鐘には、元禄十年(1697)の銘がある。鐘をよく見てほしい。鐘に5つの直径1センチほどの穴があけられている。この穴こそ、かつての戦争の名残である。戦争の末期、金属不足のため、寺社の金属類も供出を命じられた。この鐘も、お国のに「出征」した。

これら5つの穴は、その時材質検査のためにあけられた。幸か不幸か、鋳潰される前に終戦になり、集積地に放置されていたものを、かつての住職が「復員」させた。

鐘楼には撞木はなく、地元でこの鐘の音を聞いた人はほとんどいないのではないか。そのため、梵鐘について知る人も少ない。梵鐘の出征は、全国各地で行われた。中には、これに抵抗した住職や檀徒もあったというが、ほとんどは進んで名誉の応召に応えたようである。

平和のシンボルである梵鐘までを人殺しの武器にした。

水田さんは、このような日本の仏教の転落を指摘し、「過去の過ちを再び繰り返さないための戒めとして、観音堂の梵鐘に開けられた穴は記憶されるべきである」と主張されている。

*『靖国の真実-玉砕・飢餓・刑死(兵庫人権問題研究所)』(水田全一著)参照

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