昭和7年から満州開拓団が移民が始まった。昭和11年より本格化する。そして、関東軍の尖兵とも楯ともなるべく、14,5歳の少年たちが満州開拓少年義勇軍として満州に送り込まれた。一番多かったのは黒龍江省であった。詳しい様子は分からないが、当時の神野村(現:加古川市神野町)の広報誌『神野雑報』は、そのようす一部伝えている。*読みやすく書き換え、一部省略(・・・部)した。
「満蒙開拓講習会(212号)」(昭和22年10月25日)
10月2日より3日間、農業学校における青少年満蒙開拓講習会に・・・高二(高等科二年)、児童4名受講。そのうち、今出寅一、前本要一の2名は義勇軍に参加。渡満を決意し、目下手続き中である。
「満蒙開拓義勇軍壮行式(216号)」(昭和17年2月26日)2月23日、・・・小戦士、今出寅一、前本要一両君の壮行式を講堂において挙行、後全児童見送りをなす。
「満蒙開拓義勇軍出発(219号)」(昭和17年5月25日)
5月14日、さきに満蒙開拓義勇軍に参加、茨城県内において訓練を受けつつあった前本要一、今出寅一両君は本日神戸を出発。一路目的地に向かった。当日は早朝より生田神社において壮行式を挙行され・・・正午出帆。小林村長、野村校長、関訓導は・・・見送りをなし、両君の健康と活躍を切望し、万歳裏に分かれた。他の加古川地域の村々でも、状況は同じであったことであろう。

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