加古川の戦争(14)・特攻

平成12年、サンテレビは加古川飛行場(加古川市尾上町)から出撃した特攻隊を取り上げた。戦時中、特攻兵の教育にあたった上木政範さんは、悔恨の気持ちをこめて語られた。加古川飛行場では、昭和20年の春、若い隊員に特攻志願書が配られた。

そこには、「熱望」、「希望」、「志望」とあり、「希望しない」という項目はなかった。全員「熱望」を選んだ。以後、訓練は特攻用に変わった。淡路島方向から低空で急降下をするものであった。

昭和25年5月25日、加古川飛行場で行われた特攻の出撃式の写真をはじめて公開された。12名の若者が写っている。全員死亡した。

上木さんも、昭和20年6月22日の明石空襲のとき、アメリカのB29の攻撃を迎え撃つため加古川飛行場から出撃した。しかし、機体が古く、失速し撃墜されたが奇跡的に助かった。この番組の放映時、取り壊し前の中村屋旅館(国道2号線と県道小野線の交差点から北へ300メートルの西側)があった。中村屋旅館は、戦時中陸軍の指定旅館だった。

加古川飛行場に降り立った特攻隊員等が宿泊した。中村屋旅館には、特攻隊員の遺品が数多く残されている。中には「断」と指で書いた血染めの書もある。

上木さんは「すべてが戦争を中心に動き、拒否することの出来ない時代があったことを知って欲しい」、そして「二度と戦争はしてはならない」と訴えておられる。

*写真は、中村屋旅館の前にあった「特攻の碑」(旅館の主人が私費でつくられたもの)。現在、鶴林寺の境内に移され保存されている。

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