前回(五ヶ井堰)の続きである。
取水口(A)に集められた水は、五ヶ井溝と新井溝に分かれて流れ下る。
五ヶ井用水は、下西条(現在の神野町西条)から一気に、二塚村の南で曇り川と合流して水勢を増す。取水口と二塚村の間(赤く塗りつぶした部分)は、五ヶ井用水を利用する村ではない。五ヶ井郷は、大野村より南の地域に広がる。そのため、この間の五ヶ井用水の管理は、当然五ヶ井郷の役割になった。
ただ、江戸時代の万治元年(1659)、二塚村に惣太夫新田が開発されたが、五ヶ郷は、同新田に五ヶ井用水の水を引くことに同意している。これは、開発者が五ヶ井郷に属する溝ノ口村の惣太夫であったことが了承の理由であったともいわれている。
基本的には、この間の五ヶ井溝は下西条村・二塚村と関係がない。そのため、田植えの前の溝掃除等は、五ヶ井の村々があたり、今もこの慣行が続いている。
用水に沿って、写真(下)のような石柱がある。この標識は「ここから南は、長田の掃除分担区域である」ことを示している。以下は、蛇足である。

そんな時は、二塚村・大野村はもちろん、その南に広がる五ヶ井郷の村々は大きな被害を受けた。

