五ヶ井用水を歩く(7)・五ヶ井用水と新井用水(1)

五ヶ井用水と新井用水(1)

承応三年(1654)の旱魃はひどかった。太陽が、大地を容赦なく照りつけた。秋の収穫はなかった。溜池にたよる現在の平岡・野口町、そして播磨町24ヶ村の百姓たちは、木の実・草の根、竹の実を、そして種籾までも食べつくし、餓死する者も少なくなかった。それに比べ、加古川の水を利用している五ヶ井郷(現在の加古川町・尾上町)の村々は、ほとんど被害もなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受けむしろよく実っていた。

野口・平岡・播磨の村々の百姓たちは、食べるものがなかった。五ヶ井郷から食料と種籾を分けてもらった。

古宮村(こみやむら・播磨町)の大庄屋・今里伝兵衛(いまざとでんべい)は、加古川から水を引きたかった。しかし、水は川より高い土地には流れてくれない。そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の五ヶ井用水の取り入れ口から水を分けてもらえないかと考えた。

水は百姓の命であり、五ヶ井郷の了解が得られるとは思えない。それに「新しい用水をつくることに古宮村以外の百姓たちの協力が得られるだろうか?」という心配があった。

伝兵衛らは、姫路藩主に熱心に嘆願した。ついに藩主・榊原忠次の許しを得ることができた。難問は、いっきに解決した。新井用水の工事は、明暦元年(1665)正月に始まった。新井用水の起工式に伝兵衛は白装束で臨んだという。翌年3月に完成した。新井用水は、五ヶ井用水に対して新しい用水という意味である。

*写真の新井用水は、洋服の店「青山」のある国道2号線の交差点をこえたすぐ南

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