竜山石について触れておきたい。
古代の加古川の主流は、現代の加古川よりも西をながれていたと想像される。河口は、竜山の採石場(写真)のあたりだったのかもしれない。万葉集で歌われている加古川の三角州「ナビツシマ」が、前方にひろがり、このあたりは、加古川の河口というよりも、海がせまり湾のような地形をつくっていたようだ。そこに、竜山石の採石場があった。
真壁夫妻の研究によれば「五世紀ごろの畿内大王家の古墳のほとんどは竜山石であり、竜山が五世紀の畿内勢力と密接に関係し、畿内勢力下で、この石切り場が開発されたとも考えられる」と、述べておられる。竜山石は、もちろん大和地方へだけではなく、はるばる九州地方にまで運ばれている。竜山石は、水上により目的地まで運ばれ、当時の運搬用具である「修羅」に移しかえられ設置場所まで運ばれたのであろう。
道路の整わない当時の陸上を運ぶより、水上を運んだ方がはるかに容易に早く運べた。竜山石は、加工しやすい柔らかい石材(凝灰岩)であったが、何よりも運搬に便利な川(湾)に面した絶好の場所にあった。竜山石・石の宝殿の詳細については『石宝殿・古代史の謎を解く(真壁忠彦・葭子著)』(神戸新聞総合出版センター)をお読みください。

