右の地図の黄色(陸地)の部分は、同縮尺の現代の地図に「天保国絵図」を挿入した概略図である。高砂に近づいた高瀬舟は、水路(高砂川)に入り目的地・堀川に着いた。加古川からの水路(高砂川)を堀川と呼ぶ人も多いが、堀川は高砂神社のすぐ北の東西の部分が堀川である。その北の東西の水路は北堀川で、北堀川が突き当たったカ所から南北に流れる運河は西堀川である。
堀川を囲んで多くの問屋があり、まさに、ここは姫路藩の一大ターミナルであった。堀川が西へ突き当たったところは工楽家で、その北に美濃部達吉の生まれた美濃部家があった。明治のころまで「問屋の庭はきをするだけで食える」といわれた。これは「運送中にこぼれた米をはき集めるだけで商売になる」という意味で、高砂の繁栄ぶりをよく示している。

その倉庫群も、最近は駐車場などに姿を変えている。
*『加古川舟運の研究(吉田省三著)』(滝野町)参照

