いまの加古川大橋の少し上手に橋杭のあと(写真)が残っている。
*この橋については、2007年3月9日のブログ(旧加古川大橋)をご覧ください。
この橋杭の東岸の土手のあたりに加古川のハマ(河岸)があった。そこは、食事所があったのであろう、茶屋所(ちゃやじょ)と呼ばれていた。加古川の河岸は、鉄道(山陽鉄道)がついてからの方がむしろ繁盛したようである。それまでは、ほとんどの荷物は高砂まで直接運ばれ、ごく一部が小揚(こあげ)される程度であったという。
加古川の河岸と塩座
高砂では、製塩業がさかんであった。そして、塩の行商はこの地方の主な産業の一つになっていた。しかし、舟運の発達により大量の塩が高瀬舟で奥へ運ばれるようになった。それまでの商人の生活が成りたたなくなってきた。そのため、塩商人たちは姫路藩に対して運上銀(税金)の上納と引き換えに販売権を願い出ている。そして認められた。
享保一六年正月に加古川村に、塩の販売を監視し、運営する塩座(塩改所)が設置された。高瀬舟による塩輸送にも運上銀がかけられるようになった。塩座は、高瀬舟が積み込む塩については、塩一石につき銀三分五厘を徴収した。
*『加古川の舟運の研究(吉田省三著)』(滝野町)
『加古川市史(第二巻)』(加古川市)参照

