闘竜灘の北の田高川(たこうがわ)・本郷川の舟運については、他所で紹介するとして闘竜灘より南の舟運の説明に入りたい。加古川舟運では闘竜灘から高砂までを滝野川と呼んでいる。そして、加古川の舟運を語るとき、滝野の阿江与助を除いて語ることはできない。
与助が、闘竜灘の北、そして南は大門までの加古川の開削にあたった功績は大きかった。写真は、大門(加東市大門)の河岸(かし)のあったあたりである。阿江家は、加古川の開削にあたっただけでなく、幕末まで舟座を世襲した。
そして、同家には多くの古文書が残されており、従来加古川舟運はもっぱら同家に残された古文書によって語られてきた。
そのため、阿江家の功績ばかりが強調されたものと思われる。加古川舟運は、江戸時代の早い時期に完成しており、高砂までの加古川舟運の開発は、与助のみによるものではない。「大門より南は、印南郡(現:加古川市)砂部(いさべ)の彦兵衛と加東郡(現:加東市)垂水村の三郎右衛門によって切り開かれたとある古文書はかたっている。
彦兵衛について詳しいことは分からない。
*『加古川市史(第二巻)』参照

