加古川を歩く(37):舟運(5)・日本海側との交流

加古川をさかのぼると支流の一部は石生(いそう)へ着き、 石生からさらに北の由良川を下ると日本海へ出る。石生に「水分れ公園(みわかれこうえん)」があるが、ここに降った雨の一部は加古川へ、一部は由良川へ流れる。

「水分れ」は、平地部に分水界があるめずらしい地形である。標高は、およそ95メートルで、海面が100メートルも上昇すれば日本は加古川と由良川を結ぶ線で二つにわかれてしまう。当然、古代から加古川・由良川水系は日本海側と瀬戸内海側をつなぐ道の役割を果してきた。

水分れ公園内の「水分れ資料館」に、この地域の水運に関する展示があったので、掲載させていただきたい。

日本海側との交流

・・・・・江戸時代には加古川に水運が開かれて、頻繁に舟が行き来しました。由良川流域の福知山や丹後の物資も、青垣町穴裏峠(あなのうらとうげ)を陸路で越し、同町東芦田から小舟で船座のある本郷へ運ぶか、または石生へ廻って本郷に達し、本郷から滝野や高砂へ下りました。

こうして南北の交流が行われ、物資や文化も伝わりました。・・・水分れ公園資料館展示より)なお、明治のはじめに石生付近を運河とし、日本海側と瀬戸内海側を結びつける構想があったことも説明している。

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