加古川を歩く(31):加古川川筋一揆(6)・一揆の終息

近藤亀蔵屋敷の打ちこわしは、加古川一揆の大きな山場だった。長年の農民の不満に、次々と火がついた。

もともと、この一揆のねらいは、米の川下げで金儲けをする新町(加東市滝野町)から、河口の高砂港までの川筋の富農・富商を懲らしめることにあった。農民にとって、高砂は、まさに“恨みの町”と化していた。

近藤邸をつぶした一揆は、加古川市域の国包(くにかね)・西条・大野・寺家町へとなだれ込み、干鰯屋(ほしかや)・酒屋・木綿問屋などを襲った。そして、高砂を目ざした。

しかし、加古川一揆も15日(天保四年・1833)の朝には、姫路藩の軍勢に取りおさえられた。姫路藩にしても、藩内の経済混乱を避けるため、高砂だけは死守する心構えであったのであろう。一方、北へ向かった一揆衆も15日の朝には疲れはて、人数も減り、柏原藩の兵に散らされた。

ここに加古川一揆は、終わりを告げた。

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