加古川を歩く(30):加古川川筋一揆(5)・近藤亀蔵②

小野市の黍田と対岸をつなぐ万歳橋が左岸(東岸)に突き当たるところに豪商・近藤亀蔵の屋敷があった。天保の川筋一揆で一揆衆につぶされた。写真は、近藤家のあった場所で、今はその跡かたはない。

昨日に続き、亀蔵について『故郷燃える①』より、その続きを引用させていただきたい。(亀蔵の子・文蔵の話が中心となる)

 ・・・・(一揆の)のち、勤王・佐幕の動乱期に、近藤家は亀蔵から文蔵の代になっていたが、倒幕派の急先鋒、長州藩と深く結びつき、その志士たちの活動をひそかに援助する。長州藩との関係は、近藤家が兵庫~下関間の回漕業(海運業)を経営していたことから生じた。元治元年(1864)と慶応元年(1865)の二度にわたり、幕府が長州藩を封鎖したときには、その物資輸送を助けており、長州藩士、伊藤俊介(博文)なども長く近藤文蔵の本宅(市場町)に潜伏していたことがあるようだ。

志士たちは、近藤のような豪商のルートをたどって、地下活動をした。

・・・・余談になるが、明治になって没落した近藤家の子孫が、政府高官に出世した伊藤博文のところへ、金策を頼みにいったことがある。博文は、志士時代の恩義を感じ、あるもうけ仕事をあたえた。ところがもう一度頼みにいったときは「あの時の恩返しはすんだ」とすげなくことわられたという。

それはさておき、安政三年(1865)76歳で死ぬまで、この近藤亀蔵にとって最大の災厄が、天保四年九月の一揆襲撃だった。・・・・

 (『故郷燃える①』神戸新聞社)より

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