加古川を歩く(29 ):加古川川筋一揆(4)・近藤亀蔵①

山陽自動車道と加古川が交わるすぐ北あたりで加古川は大きく南へと湾曲する。そこに万歳橋がかかるが、万歳橋の左岸(東岸)に近藤亀蔵の屋敷があった。

亀蔵の屋敷は、天保四年(1833)九月十四日の朝、加古川筋を荒れ狂った一揆衆に見事なまでに潰された。現在屋敷跡は、I木材店となっているが、跡かたはまったくない。

近藤亀蔵①

近藤亀蔵については、『故郷燃える(①)』(神戸新聞社)におもしろいの記述があるので、引用させていただきたい。・・・・「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門(かど)通れば後光さす」と、当時の俗謡に歌われている。

何でも相撲の番づけ表に見立てるのが日本人の好みで、江戸時代大はやりしたが、享保年間(1730年ごろ)に、はじめて「日本長者鑑(かがみ)」という長者番づけが出たとき、東西の両横綱として上げられたのは、東が出羽の本間、財産四十万で、西は播磨の近藤、六十万両であり、近藤家は日本一の大金持ちと折り紙をつけられた。

寛政元年(1789)、わずか九歳で先代の跡を継いだ亀蔵は、文化、文政、天保へと40年間にわたり、いろいろなことに東奔西走した。相当の腕ききだったらしい。

特に、回漕業(海運業)をもっとも手広くやり、大坂・兵庫・高砂・下関に倉庫をおいて、全国に船を派遣し、米や雑貨の売買で大もうけをした。もろん、「当国第一の銀貸し(銀行)」でもあった。

幕府に相当な献金もしたのだろう、亀蔵という名も大坂城代からもらった。長蔵というのが元の名である。地元の小野藩、一柳(ひとつやなぎ)家の御用金もうけたまわって、とっくに苗字帯刀ご免だった。・・・・

亀蔵について、もう少し『故郷燃える①・黒船編』より紹介したい。

*写真・近藤亀蔵

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