加古川を闘竜灘(加東市滝野町)までさかのぼると、ゴロゴロとした岩石が川底からせりあがっている。昔は、今よりも水量が多くてここを流れる水は豪快な風景をつくっていたことであろうと想像される。
しかし、高砂からここまでのぼった高瀬舟は闘竜灘が壁となり、これより上には進めなかった。そのためにすぐ下流が終点になる。
一方、闘竜灘の上流から下ってきた船は、そのすぐ上でとまった。闘竜灘の地帯だけ、積荷はいったん陸上を運ばれ、上下の積みかえが行われた。そのためこの辺りは、米・その他の物資の集散地として栄えた。
特に、闘竜灘のすぐ下流の新町には自然の岩を利用した船着場(写真)がある。

新町という名も高瀬舟の舟運以来、ここはにわかに賑わいを見せたところからつけられた名前である。この新町の辻に、一揆を予感させる一枚の張り紙がコツゼンと現れた。天保四年(1833)九月十一日の早朝のことであった。その日は、何ごともなく過ぎた。これと同じような張り紙は、近隣の村々にも張られていた。翌、十二日の夕暮れ、遠くにかがり火が見えた。そして、夜のふけはじめためた頃、一団は川を渡り新町へとなだれ込んできた。手に手に、竹やりやクワを持っていた。
一揆衆は、夜も11時ちかくになったころ米の仲買商を襲撃した。加古川川筋一揆は、新町からはじまった。
*写真下は、船着場への道への表示板(新町)
『故郷燃える①』(神戸新聞社・昭和45年)参照

