加古川を歩く(26):加古川川筋一揆(1)・一つの経済圏

天保四年(1833)に加古川川筋を巻き込んだ加古川川筋一揆を取り上げたい。すでに述べたように、高砂は港町として大いに繁盛した。加古川流域の年貢米・綿等は、高瀬舟(たかせぶね・挿絵)で高砂に集められ、ここから大坂・江戸へ送られた。

そして、帰りの舟で干鰯(ほしか)・その他の生活用品がそれぞれの流域の村々に運ばれた。この加古川の舟運については、後日項を改めて取り上げたい。江戸時代、加古川流域は、藩の枠を超えて、加古川川筋という一つの経済圏が成立していた。

そのため、天保四年は、全国的な飢饉にみまわれ、各地で一揆がおきたが、加古川でも庶民の苦しみと怒りは一挙に広がりをみせ、加古川川筋全域を含む大規模な一揆にひろがった。

一揆の序曲

播磨は前年(天保三年・1932)も不作であった。どの村々も、夏には米のなくなった農家も少なくなかった。天保四年は植えつけの後に長雨が続いた。農民は暗く打ち沈んでいた。9月11日の早朝のことである。滝野町(加東市)新町の辻に一枚の張り紙がコツゼンと現れた。

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