加古川を歩く(20):加古川は暴れ川(7)・明治29年の水害

大雨の時、加古川の水位は高くなる。そんな時は、加古川の水の取り入れ口から、反対に大量に流れ込むことになる。そのため、取り入れ口の水門は閉じられる。しかし、困ったことがおこる。

曇り川(神野町)に、それをみたい。曇り川は、ふだんはあまり流れがない。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まである。しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となる。こんな時は、加古川へ排水する水門は閉じられるている。水の行き場がなくなる。

曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、水害をおこした。加古川の水害史のパターンは、この例が多い。

『加古川市史(三巻)』を引用したい。・・・・1896年(明治29)、1897年(明治30)の両年、加古川流域では、水害により深刻な被害を被った。明治29年には、8月から9月上旬にかけて前線性降雨や台風により水害が頻発した。この時の状況について、例えば、9月10日付『神戸又新日報』は、次のように伝えている。

*以下は、その記事の一部であるが書き変えている。詳しくは『加古川市史・三巻』をご覧ください。・・・6日より、曇り川が氾濫し、加古郡西部加古川町・氷丘村・鳩里村等の各村一円は浸水し、氷丘村ごときは一村450戸のうち400戸が浸水し、 茫々(ぼうぼう)たる湖の如し。人々は、寺院または高地に避難し田面はことごとく没した・・・・

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