天保3年(1832)は、日照つづきで不作。同4年は長雨で、またまた不作。さらに、6年、7年13年と凶作がつづいた。
とりわけ、7年から8年にかけては、全国的な大飢饉になった。
平岡地域も例外ではなく、生活は困窮を極めた。一枚の文書(加古川市所蔵)がある。
「村方困窮につき御見聞くだされたき願書」
乍恐奉差上願書之事(おそれながら、差し上げ奉る願書のこと)
寺家町組
高畑村
この訴えの結末はわからない。「天保15年(1844)には村の困窮はひどくなり、特に耕作者のいなくなった田畑が100石にもおよび、それを村の惣作田(そうさくでん)として維持しているが、それもうまく行かない。
そのため年貢に差し障り、貧しい農民は年貢が納められず、村では借金をして何とか間に合わせている状態である・・・」と領主に救いを願い出た。
「惣作田」とは田畑が荒廃した場合、その田畑を村中で耕作し、年貢を納入する田のことである。
きっと、生活が苦しく奉公に出たり、年貢が納めきれず逃亡し、多くの家が絶えてしまったのであろう。

