28.平岡町二俣探訪:新井物語② 大飢饉(承応三年・1654)
承応三年(1654)の旱魃は猛烈でした。

太陽は、容赦なく大地を照りつけ、お百姓たちは、空を見上げ神に祈るほかに方法は見つかりません。

近在の百姓は、木の実、草の根、竹の実はもちろん種籾までも食べつくし、後のことを考える気力もないほどで、餓死する者もあとを絶たなかった。

  「播州賀古新疎水道記」は語る

二俣の円明寺に『播州賀古新疎水道記』(寛文13年・1637)の記録が残されていました。

この記録は、現在播磨町の歴史資料館で保管されています。

「水道記」の一部を、現代文で紹介します。

「・・・阿閇荘古宮郷と23ヶ村は、代々姫路城の領地である。

この地は海に近く川は遠く、水が乏しい。

昔から旱魃の年には、しばしば苦しめられてきた。

・・・

承応三年の夏、二ヶ月ほど雨が降らなかった。

苗は皆枯れ、この年非常な飢饉になり、死亡する者がおびただしかった。・・・」と記録しています。

  藩:當取無(税金なし)で決済

この年は、当然のごとく年貢が徴収できるほどの収穫はありませんでした。

さすがに、姫路藩としても「無いものは取れなかった」とみえ、二俣の隣の一色村に次のような年貢免状(年貢の徴収状)を出している。

  年貢免状(写真)をご覧ください。以下は、読み下し文です。

    定 午歳免相追之事   *免相(めんあい・年貢率のこと)

   一 高四八九石四斗一升七合㊞ 當取無㊞

   右の通り相究むるものなり 

   承応三年午年(1654)十月八日              

 これはすごい文書で、「今年の年貢は不作のため先送りするのではなく“当取無”(税金無し)として決着させる」という意味です。

 よほどの飢饉であったことが分かります。

 この年の二俣村の惨状も想像されます。二俣村にも同じような「免状」が出たと思えるのですが、残っていません。

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