30.平岡町二俣探訪:新井物語④・逆勾配

「新井(しんゆ)」については、『今里伝兵衛と新井の歴史』(新井水利理組合連合会)等すばらしい研究書があるのでそれ等をご覧ください。

 ここでは、新井と二俣(村)とのかかわりを中心に取り上げてみたい。

新井は図のように加古川大堰のところから、曇川(くもりがわ)・喜瀬川をこえて古宮(播磨町)大池まで約13キロを流れる用水です。

順調に進んだように見える工事も途中、さまざまな難工事にぶつかりました。

 用水の取り入れ口から流れた水は、水足から坂元までは台地の麓をとおって古大内(ふろうち)に流れました。

そこから、新井は東に方向を変えています。ここも、新井の北は台地の面であり、南だけ堤をつくれば溝ができあがりました。

  逆 勾 配

困ったことがおきました。二俣のところで地形がやや高くなっているのです。水は高いところを流れてくれません。

坂元から二俣まで水路の幅が一間半(2m70cm)、二俣から水の勢いを保つために、古宮まで一間としました。

工事は、順調に行ったかに見えたのですが、勾配の関係で二俣のところで水が、うまく流れてくれません。

 伝兵衛は「流路を変更するべきか・・・」と、ずいぶん迷いました。名案が浮かびません。

食事が喉を通らない日が続きました。

ある日、妻に、そんな悩みをフッともらしました。

妻は、手桶に水を入れ「水は勢いをつければ高いところへも流れるのでは・・・」と伝兵衛に話しました。

これにヒントを得て、流を工夫したというエピソードが伝えられています。

 真偽のほどはともかく、二俣あたりは困難な工事のようでした。

 『阿閇の里』(播磨町)は「・・なお、戦後のコンクリート舗装の時、逆勾配の部分は掘り下げている。例えば、二俣では30センチメートルも掘ったとのことである。(井上勝利氏談)」と書いています。 

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