
兵庫県神戸市市出身 細畠 力雄
私は神戸生まれの大阪育ちです。正しくは阪神間育ちと言うべきでしょう。
幼少時代を振り返ると、産声を上げた3年間は神戸で育ち、その後、成人式を迎えるまでは大阪、尼崎、西宮と転々としています。
更に、親離れして自立するまでの凡そ10年の間、再び大阪、西宮へと転宅を重ねてまいりました。
何故でしょう?
このように転々とした背景には、戦時中から戦後にかけての混乱期に住まい確保がはなはだ困難なご時世だったことと、親父の度重なる転勤によるところが大でした。
そんな訳ありで、私の「ふるさとを語る」すべが見つかりません。
敢えて語るとすれば、あの田中角栄総理時代の列島改造論に便乗して、狭いながらも楽しい我が家を求めて、ここ平岡町二俣に住み家を求め、今や40余年を迎えたところです。
この地で子供3人(2男・1女)が生まれ、育ち、学び、そして巣立ちしました。
わが子供たちにとっては当地平岡町二俣がふるさとであり、都会を転々としてきた私にとっても、息子・娘達と同様、住めば都の此処が「我がふるさと」となりました。
家内のふるさとは三重県の紀伊長島です。![]()
私は神戸生まれの大阪育ちです。正しくは阪神間育ちと言うべきでしょう。
幼少時代を振り返ると、産声を上げた3年間は神戸で育ち、その後、成人式を迎えるまでは大阪、尼崎、西宮と転々としています。
更に、親離れして自立するまでの凡そ10年の間、再び大阪、西宮へと転宅を重ねてまいりました。
何故でしょう?
このように転々とした背景には、戦時中から戦後にかけての混乱期に住まい確保がはなはだ困難なご時世だったことと、親父の度重なる転勤によるところが大でした。
そんな訳ありで、私の「ふるさとを語る」すべが見つかりません。
敢えて語るとすれば、あの田中角栄総理時代の列島改造論に便乗して、狭いながらも楽しい我が家を求めて、ここ平岡町二俣に住み家を求め、今や40余年を迎えたところです。
この地で子供3人(2男・1女)が生まれ、育ち、学び、そして巣立ちしました。
わが子供たちにとっては当地平岡町二俣がふるさとであり、都会を転々としてきた私にとっても、息子・娘達と同様、住めば都の此処が「我がふるさと」となりました。
家内のふるさとは三重県の紀伊長島です。
