加古川を歩く(40):舟運(8)・高瀬舟(2)

加古川は、農業用水の水源でもあった。すでに紹介したように、加古川には各所に堰がつくられ、高瀬舟の運行は田畑で水を使う期間はできなかった。高瀬舟の運行は、九月の彼岸から翌年五月の八十八夜までと限られていた。

この間、堰は壊された。

さて、高瀬舟であるが滝野から高砂まで約37キロ、朝四時ごろに出発し、4~5時間で高砂に着いた。下りは、水流にのって行くのであるから、危険はあったが便利であった。帰りが、大変だった。帰りは流を逆行するのであるから、船頭は先頭に座り、艫乗り(とものり)は、最後尾にいて、船頭の支持どおりに櫓を操った。中乗りは「かい」を使って船を進めた。早瀬となると、容易に前に進んでくれない。

こんな時は、船頭が船に残り他の二人は河原にあがって引綱をひっぱるのである。苦しいどころの騒ぎではなかった。この姿が「さる」に似ているので、船を引く船子は「さる」と呼ばれた。

船子のかけ声が、「さる」のホー・ホーという鳴き声に似ていたからともいわれる。

*絵:蓬莱家(加東市大門)所蔵

『KAKOGAWA-加古川とその周辺の歴史-』(伊賀なほゑ著)参照

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